一席お付き合いを。喜餅です。
有名な女性雑誌で「プロ彼女」なるものが特集され、大炎上したそうな。
「プロの○○」ではなく「プロ○○」って時点で、どうなんだろうと思ってしまう・・・ほら、プロ市民、とか。その女性雑誌はワザと炎上を狙ったんじゃないかと思うくらい。
その雑誌によると・・・
プロ彼女は食事を作る際も和食で10品以上準備したり、彼の三歩後ろを歩き、彼が浮気しても「帰ってきてくれたらいい」と許す、そうな。
なんともはや男性の願いがギュッとつまったパーフェクト彼女じゃあるまいか。・・・ってのが、炎上の理由だそうな。平成の世も、既に四半世紀過ぎたというのに、その記事には明治維新の風がふいてたそうな。
変えるべきでない「伝統」と、新しいものを取り入れる「革新」ってのは、バランスが難しいもので、アタクシなんかがやっている英語落語なども、伝統を重んじる落語の世界からすると、革新も革新、むしろ別ジャンルのイロモノ枠に入れてしまってもいいくらい。
そんなイロモノに取り組んでるアタクシが、前述のプロ彼女と、今取り組んでいる伝統的な人情噺を重ねてしまった。
「芝浜」に続き、現在「子別れ・下(子は鎹)」に取り組んでいるのだけど、長い間、男の世界とされてきた落語、やっぱり噺の筋は、前述のプロ彼女のような、どこか男性の願いが入ってるような気がするよね。
酒に溺れた旦那が、とある失敗(芝浜では奥さんの機転で、子別れでは吉原の女に捨てられ)を機に一念発起、死に物狂いで働いて、その後には奥さんとハッピーエンド、なんて流れ。
「芝浜」も「子別れ」も、3年だよ、3年。旦那が死に物狂いになるキッカケから3年経つんだ。まぁ、「芝浜」は離婚せずに共に歩いての3年だけど、「子別れ」は旦那に捨てられた上での3年なんだよね。この辺りは、相当、男性側の願いが入ってるよね。今の時代なら、どうなんだろう。復縁など、あるのかな?
現代でもこういう話、起きる可能性は、ゼロじゃないよね。でも、こういうのって、(ハッピーエンドという結果を)成し得た二人だけが過去を顧みて美しいと感じるものであって、周囲の、とりわけ「~~であって欲しい」と願う男性が女性に要求する「理想の鋳型」じゃないよね。(この辺り、自分のオリジナルの「いつかのメリークリスマス」は、落語っぽくなく登場人物の男女を別れたままにしてある。でも、死に物狂いで頑張った噺の中の男性は、それはそれで大成させてある)
人生の、局所局所での決断って、ホントわからない。継続させる決断、終わらせる決断、たまたま今回(芝浜や子別れ)は(奥さんの旦那に対する想いを)継続させる決断のうえのハッピーエンドだけど、おそらくは現実は、そうじゃないケースの方が多いと思うし。
ただここ数年、「人の人生って、死ぬ直前にしかその人生が良かったのか悪かったのかわからない」なんて人生観になってきて、且つ、自分の身の上話(といっても自分じゃなく両親)から、こういう落語的な話も事実起きてしまっているので、おもしろさを感じてしまう。
そして、この辺りが300年以上も経つのに落語が生き残ってる理由なのかもしれない。基本、落語に登場する人達って、圧倒的な「悪」ってないしね。泥棒ですら、どこか憎めない。せわしない現代社会にこそ、落語のような存在は、たとえその噺のスジが現代の価値観に合わなくても、必要なのかもしれないね。
現実の世界では、自分も含めて多くの人が難しいと思う継続する決断の先のハッピーエンドを、落語の世界では見せてくれるから。
さぁ、「芝浜」に引き続き、新ネタとなる「子別れ」、どまんなか寄席のお客様に受け入れて頂けるのだろうかねぇ。楽しみだね。
おあとがよろしいようで。
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